『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』

今日は少し堅く。
どっかに書いたものをそのまま。


『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン
これらは俗に「ドル箱三部作」といわれる、セルジオ・レオーネ監督の西部劇三部作。
マカロニ・ウエスタンとよばれる作品群のなかで、代表的な作品であり、世界にその存在を知らしめた作品でもある。

また全ての作品で音楽はエンニオ・モリコーネが担当。
その旋律は西部の風景とは不調和である、ただそれがレオーネの映像と、調和する。
アップでの目の動き、そしてその視線の先にあるもの、俯瞰、これらが短い動きの中でつなぎ合わされていく。
遠景のカットと、細かい動作を映し出すアップカット。
台詞の代わりに効果音として、モリコーネの旋律が「語る」。
口笛や弦楽器のソロが印象的で、登場人物達が動かないなか、ただもの悲しく曲が流れ、止まり、そしてすこしの空白、動きがある。
映画を通じて盛り上げられる、あの緊張感、寂寥感はモリコーネの音楽無しには考えられない。
なんとなくもの悲しく、乾いた美しい旋律はモリコーネらしい。
過剰とも思えるほどに扇情的に流されるBGMは、この三部作を叙情的に、センチメンタルにはしない。
観客の緊張感をどんどんとあげてゆき、そして、物語の中に没入させていく。アップでの目の動き、そしてその視線の先にあるもの、俯瞰、これらが短い動きの中でつなぎ合わされていく。
そして、そこに登場する人物達は「男臭い」。
用心棒、賞金稼ぎ、埋蔵金ねらい。保安官を中心とした「正義漢」たちが主ではない。
ノワールアウトロー、社会の周縁部にいて、彼ら独自の世界を持つ男達の物語である。
あくまでレオーネの「三部作」は「男」の物語なのだ。
「男」達は自らの信じるところに従い行動し、彼らの規範のなかで死んでいくことは厭わない。
日本の任侠映画にも通じるこの設定の世界では、男達には美学がある。
どんな汚い策略も厭わないが、やりあうときは必ず決闘であり、サシなのだ。(主役級の登場人物に限られ、脇役はその範疇ではない)
そして、その世界の体現者であり、一方で達観し、無頼の主人公を全作品でクリント・イーストウッドが主演し、一躍スターダムにのし上がった。
イーストウッド演じる主人公は寡黙であり、多くは語らない。
ただ飄々と顕れ、敵を倒し、去っていく。
『荒野の用心棒』では黒沢の『用心棒』そのままに、ある街の疫病神である二つの陣営を壊滅させ、『夕陽のガンマン』では悪党インディオ一味を全滅させた。
『続・夕陽のガンマン』ではどうか。
紆余曲折の後、南軍の埋蔵金を手に入れて、去る。
そしてそのときに「善玉」とテロップが出て、「卑劣感」とテロップの出た相棒が大声で否定する。
三部作を通じてクリント・イーストウッド演じる主人公は、徐々に単純なヒーローではなくなっていく。
全作品を通じて、イーストウッドは体制のご威光を笠に着た「黄門様」ではなく、在野の英雄であった。
彼の目的と、世間の目的がたまたま一致したから助ける、のであって、正義感に目覚めて助けるのではない。
そういったニヒルなスタンスは全作品で崩れることはない。
『昭和残侠伝』の高倉健は「義理」のために戦う。
しかし、三部作でのイーストウッドにはその理由がない。
あるのはただ「金」という乾いた目的のみ。
ただし、その障壁となる敵が、これでもかというくらい「悪く」描かれているので(主人公以上に魅力的であったりもする)、観客としてはごく自然に、この粗野で無愛想な男に拍手喝采してしまう。
そこにレオーネの映像が拍車をかける。
べたべたとしない、冷静なカメラは、寡黙なヒーローをより魅力的に見せ、極端な話をすれば、イーストウッドは演技せずとも、ニヒルに顔をしかめてタバコを吸っていればよいのである。
レオーネの「ドル箱三部作」におけるヒーローとはアンチヒーローであり、わかりやすい典型的なヒーローではない。

先に触れたように、「男」の物語を強調する存在として、一方ではリー・ヴァン・クリ−フのような紳士を配し、また『続』のような道化も配して、その男らしさを強調する。
スーパーマンのような礼儀正しい、飼い慣らされたヒーローではない、その存在は自らは多くを語らない、粗野ではあるが野暮ではない、そんな男なのだ。
イーストウッドはそんな主人公を見事に演じきったといえる、もしくは彼自身がそういったヒーロー像に憧れていた面もあるのだろう。
事実、イーストウッド自身が監督し主演している映画の主人公(イーストウッド)はほとんどが、そのような人物に設定されている。
『荒野の用心棒』のパロディーを『バック・トゥー・ザ・フューチャー3』で見たことが未だに印象深い。
マイケル・J・フォックスは自身を「イーストウッド」と名乗り、精一杯かっこつけてみせる。
イーストウッド演じる主人公は、アンチヒーローにならんとしてなっているヒーローである。
それをレオーネはわかっていて、『続』の最後にあのような演出をしたのではないのだろうか。
今、そう感じる。
では